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【コラム】国境を越えて医療が回り続ける条件を設計する──北米シリコンバレーで磨かれた医療への視座とエム・シー・ヘルスケアグループの事業開発(後編)
■前編はこちらからご覧いただけます。
■北米で突きつけられたスピードと事業責任
2019年、岩田さんは北米三菱商事に出向することが決まりました。「不安は半分、期待も半分」というのが偽らざるところで、渡航前の語学力はTOEIC760点でした。ビジネスの最前線で通用するのかという不安を否定しない一方で、「失うものもない。しっかり受け止めてチャレンジしてみよう」という気持ちもあったといいます。
これまで専門としてきた整形外科領域に限らず、全診療科を俯瞰しながらヘルスケア事業全体を理解することが求められました。赴任前には、日本の医療制度や事業構造、財務・会計といった分野を基礎から学び直す機会もあったといいます。
日本からシリコンバレーに向かい、現地の空港に降り立った瞬間から、生活は一気に始まりました。到着後すぐ、左ハンドルのレンタカーでハイウェイを運転することになります。「初めての左ハンドルでしたので、かなり緊張しました。環境が日本とまったく違うんですね。でもカリフォルニアの空は明るく、どこまでも続いていて、街を吹き抜ける空気も日本とはまったく違う。ああ、本当に来たんだなと思いました」と振り返ります。
シリコンバレー支店に到着すると、「三菱商事の1人」として歓迎されました。本籍地がエム・シー・メディカルであることを意識させない、きわめてフラットな対応でした。ただし、その温かさは同時に、強烈な期待を伴うものでもありました。
象徴的だったのが、毎週月曜朝8時から行われる業務計画の共有です。ほとんどの参加者が日本人でしたが、すべての会話が英語で進みます。論点を簡潔に示し、次のアクションを即座に決めていく。その高い業務レベルについていくのは容易ではありませんでしたが、必死に食らいついていきました。
執務環境も日本とは大きく異なっていました。オフィスはIT系スタートアップや投資家、研究者などが共同で利用するインキュベーション拠点に置かれていました。グループ社員もいるものの、それ以上に、多様な立場、人種、国籍の人々が日常的に出入りする空間でした。
単身での渡米後、ほどなくして家族を迎えました。上の子は4歳、下の子はまだ10カ月。家族の理解は大きく、さまざまな場面で支えられました。日本食のスーパーも多く、食事に困ることはなかったといいます。
しかし、ようやく海外生活の体制が整い始めた矢先、新型コロナウイルスのパンデミックが始まりました。2020年3月、シリコンバレーの街はいち早くロックダウンに入りました。近所の公園で会話をしていただけで警察に注意されるような状況となり、「4年半の滞在期間のうち、1年半はほとんど家から出られない生活だった」と振り返ります。
北米で岩田さんが担った役割は、単なる海外調査や製品探索ではありませんでした。医療に関する新しい技術やソリューションを前にして、それを商権として引き受けるべきかどうか、事業として成立させられるかどうかを、現地で判断する仕事でした。
検討対象となるプロダクトには、大きく二つの方向性があると捉えていました。一つは、医療の質を高める技術です。こうした分野では北米が圧倒的に強く、患者の負荷を減らせる先端的なプロダクトが次々と生まれています。一方で、日本の法規制や医療の慣行、現場の運用とすり合わせるには高いハードルがあり、導入までには時間もかかります。確度は決して高くありませんが、うまく市場に根づけばインパクトは大きいです。
もう一つは、医療の効率化や省力化、コスト削減につながるプロダクトです。こちらはアジア発の技術が強い傾向にあり、日本の医療現場とのフィット感も比較的高いです。導入までのスピード感があり、事業として成立させやすいという特徴を持ちます。
どちらの方向性にせよ、検討を進めるのか、見送るのか。その判断は現地で引き受けなければなりませんでした。技術の優位性だけでなく、日本の医療制度、現場の運用、価格帯、将来の展開可能性までを視野に入れながら、次々と学んで、その場で判断していく。北米での仕事は、まさにそうした緊張感の連続でした。
「ビジネスは待ってくれません。スタートアップは時間が命。各社の最速のスピードで動いていくので、日本企業によくある意思決定の遅さは通用せず、置いていかれてしまうと、つねづね北米三菱商事のEVP(副社長相当)から言われていました。だからこそ、事前に準備を重ね、判断に必要な情報をその場で捉え、さらに日本側を巻き込んでよりスピーディに進捗させることが求められていたのです」と当時を振り返ります。
こうした意思決定の背景には、シリコンバレーという土地の空気もありました。肩書きや国籍を超えて人が集まり、実際に顔を合わせ、時にはお酒を酌み交わし、会話を重ねる。その中から、次のビジネスの芽が生まれることも少なくありません。
「現地では、大企業などで活躍している優秀な方々と日常的に出会いました。そうした方々とは、帰国後も情報交換が続いています。スタンフォード大学が近いこともあり、留学生の方や研究者と話す機会もありましたし、そのつながりは今も残っています。判断に迷うときには、スタンフォードの先生にお考えを聞くこともあります」とその培ったパイプの重要性を説きます。
赴任中にはすぐ形にならなかった案件が、帰国後にあらためて検討され、自社として出資を決めたケースもありました。短期的な成果に結びつかなくとも、中長期で続く関係性が、結果として個人にとっても、会社にとっても確かな資産になっていきます。
北米で突きつけられたのは、スピードと事業責任、そして判断を引き受ける覚悟でした。「グローバルで働く」とは、視察や情報収集ではない。意思決定の現場に立ち続けること。その厳しさと手応えを、この地で体感していきました。
■医療が回り続けるための判断――国境を越えて浮かび上がった前提条件
名古屋での営業現場、本社でのマーケティング、そして北米での事業開発。岩田さんのキャリアを振り返ると、結果として一貫しているのは、「医療の課題をどう解くか」よりも、「医療が回り続ける状態をどう保つか」という問いに、実務の中で向き合い続けてきたことでしょう。
医療の現場には常に無数の課題が存在します。個々の困りごとは切実で、目の前の一つひとつを見れば、すべてに応えたくなります。しかし、限られた資源の中で、すべてを完璧に満たすことはできません。だからこそ、どこに力を注ぎ、どこで線を引くのか。その判断が、医療に関わるビジネスの実務では避けて通れません。
岩田さんは、医療に関わる技術やプロダクトを考える際、「どれだけ高い品質を目指すか」を抽象論では捉えないといいます。あえて整理すれば、0点から60点までは比較的たどり着きやすい。60点から80点に引き上げるには、現場理解や導入順序の設計、意思決定の質といった、いわば正しい努力が求められる。
一方で、80点から100点を目指す領域は、ビジネスというよりも、研究や学問、あるいは長期的な開発の世界に近づいていく。時間もコストもかかり、再現性は低い。その間、現場には何も届かないという状況も起こりうる。
岩田さんが実務の中で重視してきたのは、例えば、80点という十分に価値があり、現場で使われ、広げていける水準を見極めることになります。過剰な品質を追い求めることで提供が遅れ、コストが膨らみ、使える人が限られてしまえば、本来の目的から離れてしまう。まずは80点で届け、実際に回しながら磨いていく。その考え方は、妥協というより、医療の現実を前提にした判断に近いです。
「これらの判断を誰が引き受けるのか」という点において、民間が果たす役割は小さくありません。制度設計や報酬体系といった大枠は公的に決められる一方で、どの技術を採用し、どの水準で社会実装し、どの段階で広げていくのかという具体の判断は、現場に近い民間の手に委ねられています。岩田さんが担ってきたのは、まさにその「具体の選択」を引き受ける役割でした。
この判断軸がより明確になったのが、北米での事業経験でした。「日本の国民皆保険制度とはまったく異なる医療制度の中に身を置いたことで、日本の医療がこれまで暗黙の前提としてきた条件が浮かび上がったように思います。誰もが必要な医療にアクセスできること。医療が一部の人のためのものにならず、社会全体として機能していること。その前提が崩れたとき、現場で何が起きるのかを肌で感じていました」といいます。
そうした経験を経た岩田さんにとって、将来から逆算して考えるというバックキャストの発想は一つの自然な思考様式になっていきました。数年後、十数年後も日本において医療が回り続けている状態を前提に、「いま何を選び、何を選ばないのか」を考える。国外の技術やプロダクトを取り入れるという判断も、その延長線上にある。国境を越えること自体が目的なのではなく、前提条件をよりクリアにするための手段にすぎません。
医療ビジネスにおける判断は華々しい成功談として語られることは少ないです。むしろ、語られない選択や見送られた案件、あえて踏み込まなかった決断の積み重ねこそが、今日も医療を回し続ける前提となっており、岩田さんもまたその判断を引き受ける一人にほかなりません。
(本記事は2026年1月に取材した内容に基づいています)
